hoshi368death

解脱できなくて現実逃避

模倣と日々と虚無と虚構

 絵でも音楽でもなんでもいいけれど憧れを抱くと大抵の人間は模倣する。こんなふうになりたい、という思いの発露なのであろう。そこからオリジナルに向かっていくか否かでセンス、才能というのがわかってくる。はじめからオリジナルに向かう人間も稀にいるのかもしれないが、それが純度100パーセントのオリジナルかどうかは……という話である。

 私は模倣の時点でうまくいかなかったのでスタートラインにも立てていなかったというわけである。

 

 最近10年ぶりにギターを買ったのだけど練習する時間的余裕も精神的余裕もない。というのも同居している母が腰の骨を圧迫骨折してしまい、結局入院となったのであるが家事を含めて色々厳しいからである。私ひとりであればどうとでもなるのであるが父や祖母等も居るのでその辺が色々あるのであり、母入院中の際の雑務も色々あるため色々色々である。

 逃亡したい気持ち、逃亡逃亡逃亡要求である。秤の様な労働、沼のような家庭、屑のような人生。

 

 スーパー銭湯に行くとアオイホノオを思い出す。スーパー銭湯行けるならギターも弾けるじゃん、ということもあるがスーパー銭湯に行くこととギターを弾くことは精神疲労度が異なるからスーパー銭湯には行くのである。しかし夜勤明けにだけ行く。普段は行かない。風呂とかサウナとかというより休憩所で寝たいのである。たまにスキンケア用品のセールスも居るがそれはそれとして夜勤明けはとにかく寝たいのである。

 さてアオイホノオであるが何故思い出すのかと言えば赤井と庵野が銭湯でウルトラマンごっこを(大学生なのに)するというくだりがあるからで、そのモラルとかそういうのではなく周りの利用客が憤慨しているのを山賀がなだめるシーンがとても好きだからである。ドラマや漫画の山賀ヒロユキは現実の山賀博之とは違うのであるが、モデルなのは事実なので山賀さんに会いたいなー という気分になってくる。

 山賀博之さん、食えているのだろうか。今、食いっぱぐれているんじゃないのだろうか。『蒼きウル』、どうなったのだろうか。

山賀さんは同じ新潟県出身なのでどことなくシンパシーを感じる。私は新潟の田舎のほうで、山賀さんは新潟の都会のほうだけどそれはそれである。アオイホノオでは絵が描けない、と言っているが本当は描ける。というかダイコンフィルムの背景描いてたんだからそりゃそうで 赤井庵野よりは描けない方 というニュアンスを島本和彦がマンガとして描いたらああなったのであろう。アオイホノオにおける「人を集める」というスタンスは本当らしく、インタビューでよく言っている。「同じ映画を10回観れば監督になれる、というのを本で見つけて『がんばれベアーズ』を10回観たら本当になれた」という話がたまらなく好きだ。本当の人間性とかはよくわからないけどスタンスとかそういうのは好きだ。

 

 模倣者にも起源者にもなれない私は既存の虚構や創作者の逸話を脳に記憶させて気を紛らわす。淹れたばかりなのに出涸らしの味しかしない茶の様な屑だ。

 死にたい。けど死なない。虚無は恐ろしいから。自分が無くなる恐ろしさに打ち勝つには悟るしかない。だけれども、悟りの真の意味とかそういうものとは別として、現代日本じゃ悟れない ということ。他の誰かは別として、少なくとも私は現代日本じゃ悟れない。チベット奥地でも多分、悟れないだろうけれど。

 苦しみの全くない 清らかな境地に、粗悪品でいいから至りたい。